瀬戸大橋建設秘話

こんにちは。梅雨が明け、明日から四連休です。東京オリンピックも始まります。熱い(暑い)夏の幕開けです。熱中症にはお気をつけてください。今月の学生便り・楽友にも掲載した記事です。どうぞお読みください。6月24日(木)の日に、20時からフジテレビで放映しています、「奇跡体験アンビリバボー」をご覧になりましたでしょうか?この日の放送は、『瀬戸大橋建設!一人の男のアンビリバボーな生き様』でした。香川県が全国放送になるとは!で視聴しました。見終えた感想は感動で言葉になりませんでした。放映の後に、瀬戸大橋記念館へ行ってみました。ご紹介したいと思います。

瀬戸大橋の建設には、長い長い期間が費やされました。約5千人の工事従事者の先頭に立ち、力を尽した人が杉田秀夫さんです。

丸亀高校から東京大学へ進み、国鉄へ就職しました。国鉄の技術者として、主に、橋桁の工事に関わり、優れた能力から、昭和47(1972)年6月、初代、本州四国連絡橋公団坂出工事事務所長として赴任しました。壮大な工事はあまりにも多くの難所に突き当たりました。

問題が山積みでした。橋の基礎を深い海の中に建設するということ。瀬戸大橋といえば、上に見えるつり橋ばかりに目が行きますが、一番大事なのは、橋を支える海底に埋まる橋桁です。ケーソンと言われるこの部分の建設は最大の難関でした。

橋建設にともない、漁業組合への説得など。漁業組合との話し合いでは、胸ぐらをつかまれたこともあったそうです。約500回に及ぶ説明会には、雨の日も嵐の日も全て、出席し、着工の同意を求めたのです。そして、潜水士免許を取得し自ら、海へ潜り、橋げたのための、岩盤調査もしました。そんな中、最愛の夫人、和美さんが病に倒れます。三人の子育てを妻に任せ、橋の建設に没頭し続け、夫人の異変に気付かなかった。末期の胃がんでした。同僚、会社には病のことを伏せて、仕事をしながら、看病と子育て家事が始まります。仕事が終わると病院に付き添い、家へ帰り、子ども達へ食事を作るという日々。瀬戸大橋の完成を待ちわびていた妻の和美さんは、橋の完成を見ることなく、12月24日、34歳という若さで亡くなりました。杉田氏は、この日始めて仕事を休みました。そして、何も知らされていなかった、工事職員、従事者たちは、訃報を聞き、呆然となりました。すすり泣きが至る所で聞こえた日ともなりました。

昭和63(1988)年4月瀬戸大橋は開通しました。本州と繋がった瀬戸大橋、開通式典には、当時の天皇陛下もお越しになり、誰もが待ち望んだ日がやっと来たのでした。この日、杉田氏は、東京本社へ移動していました。完成のセレモニーには出席することなく、子どもたちと過ごしていました。杉田氏が瀬戸大橋を通ったのは、一年後、和美さんの写真と共にでした。

瀬戸大橋建設の大偉業を成し遂げ、その後も多くの橋建設へのオファーがありましたが、現場での仕事には携わることなく、子育てを中心に考え本社内勤務に従事。 三人の子どもたちと過ごすように、なるべく定時で帰れる職務に変換したということです。

同僚たちの声があります。「彼は問題が起きた時にはすべて自分が引き受け、あらゆる面で先頭に立ち、引っ張ってくれました。嘘のない誠実な人柄によって問題もうまく解決できました。彼に対する地元の人たちの信頼は大変なものでした」。「心底、男が惚れる男でした」。

橋を架けることに生き甲斐を感じ、仕事にも人にも誠意をもって接した杉田氏は瀬戸大橋が完成して5年後に62歳という若さで、癌で生涯を閉じました。瀬戸大橋は開通から34年が経ちます。瀬戸大橋の建設には、工事中に亡くなられた方々もいます。尽力した方々がいるお陰で私たちの生活を支えてくれているのだということを忘れずにいたいと思います。橋を渡る時、哀悼の意を捧げたいと思いました。坂出市番の州にあります、瀬戸大橋記念館には、杉田秀夫氏の銅像があります。もしお時間があれば足を運び、杉田秀夫という男の生き様をご覧ください。

訪れた日は、梅雨の合間をぬって6月の晴天日。この日も瀬戸大橋は悠然と建っていました。